りんかい日記

"うまくやる"ための試行錯誤

会社は意味を与えてくれるのか

会社は役割を与えてくれるから楽だ、自分の意味を自分で見つけ出さないといけなかった研究者時代のほうが精神的にはキツかった、とtwitterで大学時代の友人が呟いていた。

誰から強いられるわけでもない、自分でテーマを決めて、自分で意味を見出して、自走しないと、何も動かない研究者のキツさは、ほんの少しだけ研究者の扉を覗き込んだことのある僕も強く感じていたものだ。研究室は、進捗がなくても誰も何も言わない。けれど、3ヶ月経ち、半年経つと、何もしなかった人と、自走していた人では、はっきりと積み上げたものに差がついている。だから自走するしかない。けれど、進捗がなくても何も言わない研究室は、同時に、進捗していても何も言わない研究室でもあるのだ。精神的にキツかった、という友人の言は実感を持って理解できる。

では、会社は役割を与えてくれるから楽だ、はどうだろうか。果たして、会社は役割を与えてくれるのだろうか。

若いうちは、役割を与えてくれるかもしれない。あまり仕事ができない社員でも、体力があるから、最後は手を動かす作業を与えればよい。これが年齢を重ねるとどうか。給料は上がり、体力は落ちているから、同じ作業をしていては生産性が下がることになる。より複雑で、体力や時間で勝負するのではなく、かつ、金額的な影響の大きい仕事をさせる必要があるけれど、それは能力的に任せられないかもしれないし、任せられるだけの能力があっても、タイミングの問題で、役割に紐づくポストを渡せないかもしれない。組織から役割を与えてもらえるかどうかは運次第、と言ってしまえば乱暴だけど、それでも、自分ではコントロールできない側面が次第に色濃くなるのではないかと、30代前半の僕は思う。

大抵の人にとって、所属している組織から十分な意味を与えられなくなるときが、かならず来る。かつて僕は、国立大学の研究者として、その道では著名だった先生が、65歳で退官して、近隣の私大に移籍して70歳まで勤め、その後は、所属する組織がなくなり、長年勤めた国立大学の近くの喫茶店で食事をしている姿を見かけたことがある。その姿に哀しさを見出したのは完全に僕の勝手でしかないのだけど、自走する部類に入るはずの研究者でさえ、役割の給源を外部に依存していたことを思い知らされ、社会に生きることの辛さに愕然とした覚えがある。

この日記では何度も書いているように、今の僕は勤め先からこれと言った役割を与えられていない。先日、上司と1 on 1をしたけれど、特に新しい仕事を割り振るような雰囲気も感じられなかった。なにか新しいプロジェクトでも立ち上がれば、アサインもできるんだけどね。やっぱコロナだからね、今期の計画は全体的に投資も抑制ぎみだし、当面は今のメンバーが今の持ち場で仕事をする感じになるかな。なんて。

気持ちはかなりきつい。ただ、よほどうまく歩を進めない限り、いつか、外部は僕に意味を供給しなくなる。55歳の役職定年でやってくるのか、65歳の定年退職でやってくるのか、人手不足に悩まされている企業に勤める32歳の身に降り掛かってるのか、それは時期の問題でしかない。そうであるならば、今すべきことは、役割の供給を組織に要求することよりも、どんな環境でも役割を奪取できる/見いだせる力をつけることではないか、と考えるようにしている。