りんかい日記

"うまくやる"ための試行錯誤

学習性無気力

みんな、どうして職場で怒ったりせえへんねやろか、と話を振ったときに、同居人から出てきた言葉がこれだった。

曰く、なにか嫌なこと/腹立たしいことが身に降りかかってきたとして、その災厄を振り払うために人は抵抗したり訴えたりするんだけど、そうした行動を繰り返しても一向に事態が改善されないとき、人は言っても/行動しても無駄だ、ということを「学び」、災厄は引き続き降りかかっているのに、抵抗する努力を止めてしまう状態を指して、こう言うらしい。鎖につながれたゾウのたとえ話などは知っていたが、こうした用語になっていることは初めて知った。

同居人が続けて話すには、この日本社会で学校生活を送っていれば、どこかで訴えても怒ってもどうしようもない、むしろ余計に事態が悪化するという経験はするだろうし、そういう経験をして、職場で黙ってやり過ごすという振る舞いができるようになるんじゃないか、と。

そう言われると、僕がいままで、ひたすら多方面に怒りつづけていた理由もわかる気がする。怒ったり訴えたりすることで、物事が前進する世界に身を置いていたからだ。あるいは、そうやってでもモノを言うべきだという価値観に、共感しているからだ。

小学校と中学校は、怒ったりしていたけれどそれで教師に褒められることもあったし、なにより成績が良かったから事態の悪化がマスキングされていた。 高校は小規模校で、比較的リベラルで、議論を許容する校風だったからここも乗り越えることができた。 大学と大学院はそうした世界線の集大成にある空間で、協調よりも独自性に重きがおかれ、意志や信念の有無が当人の迫力を生み出していると思っていたし、研究室の諸先輩はいろいろな社会現象に憤慨していたから、言うべきことは言う/言わねばならない、というパワーがあった。 その余勢を駆って就職した会社は、自由を尊ぶ親会社の血を受け継ぐリベラルな職場で、正職員は勢いがあるぐらいのほうがいい、という諸先輩の優しさに救われた空間だった(当時はそのことに気が付かなかった)。

そして今である。人生で初めて、そうしたことが通用しない世界に身を置き、結果、学習性の無気力を呈するようになった。意地の悪い言い方をすれば、教養主義のリベサヨの牙城ばかり渡り歩いて人間が、初めて牙城の外に打って出たら討ち死にした、みたいな捉え方もできるのかもしれない。

いずれにせよ、身を置く組織に対して完全に無気力になっているのは確かだ。こんなに悲しいことはない。