りんかい日記

"うまくやる"ための試行錯誤

人と暮らす

高校卒業とともに一人暮らしを始めた。当初は心細かったがすぐに慣れ、一人暮らしの自由さを謳歌するようになった。とはいえ、実家にはしょっちゅう帰っていたし、授業・サークル・バイト・研究室と6年間ほぼなんらかの空間で誰かしらと過ごしていたから、一人暮らしの寂しさを感じることはなかった。

大学院から社会人1年目にかけて、諸事情で同級生が家に転がり込んでいた。2週間ほど僕の家で過ごしては、時折実家に帰るような暮らしが、断続的に2-3年ほど続いただろうか。大学院生の頃は、バイトもサークルも辞めていて、ただただ研究室で過ごす日々だったから(それはとても良い経験だったのだが)、人と接触する時間は少なくなっていた。そうしたタイミングで始まった奇妙な同居は、僕が料理をして彼が洗濯をする分担で成り立っていた。僕は元来、人と飯を食うのが好きで、だから彼と飯を食う時間はいいなと思っていたのだった。

同級生との同居も終わり、仕事が忙しくなり始めたタイミングで、はじめてひとり暮らしらしい(?)ひとり暮らしが始まった。朝起きて、適当に食事をとって、出勤して、深夜に帰って、適当に寝て、また朝起きて、、という暮らしだ。その頃の僕は本当によく働いていたから、帰るのはいつも日付が変わる頃だし、だから時間を持て余すことはなかったのだけど、起伏のない、単調な暮らしだった。

去年の春、コロナの影響で在宅勤務になった。一日中、パソコンに向かって資料を作って、時間を区切る感覚がなくなって、急に労働時間が増えた。話す相手もいないし、外出もほとんどしない。デリバリーのバイトに登録して外出する用事をつくっていたけれど、本当に気が滅入る日々だった。

気が滅入る日々を4-5ヶ月過ごし、おまけに仕事でやらかして色々と疲弊していた僕は、飲み屋で後輩に弱音を吐き、見かねた後輩の誘いで、去年の夏からシェアハウスを始めることになった。かつて僕の家に転がり込んでいた同級生と、声をかけてくれた後輩と、3人でファミリーマンションを借り、今に至る。

人と暮らすと、イラッとすることや、腹の立つことは間違いなくある。共同生活のために咲かなければいけない時間もあり、それがもったいないと感じることもある。些細なことが思い通りにならないこともある。けれど、それを上回る良さを感じている。リビングに他者の雰囲気を感じること。他者と一緒に食事を摂ること、話すこと。他者に食べてもらうことを考えながら料理すること。季節ごとのイベントを暮らしに取り込もうと意識するようにもなったし、街に出たら甘いものを買って帰ろうか、なんて考えるようにもなった。生活リズムも安定した。なにより、ずっと仕事をすることがなくなった。

ひとり暮らしのときにはおざなりにしていたものに、他者と暮らすことで焦点が結ばれるようになる。タイミングも良かったのかもしれない。かつて、自分がどうする・どうしたいということに夢中だった頃が確かにあった。その後、自分のことだけ考えていてもつまらないなと感じるようになり、でも他者へのギブにもったいなさや互酬性を心のどこかで求めてしまっていたりして、それが次第に、もったいなさや衒いが薄れてきた今の年齢となって、人と暮らすようになると、人と暮らすことで得られるよさを、ためらいなく肯定できるようになり、維持していきたいとも思えるようになった。

誰かと一緒に暮らしていけたらいいな、そう考えたとき、パートナーを探す目線は恋愛のそれとは少し違ってくるような気がする。もちろん経済的利害だけの結合ではないが、さりとて互いしか見えない熱情による結合でもない。長く一緒に過ごすことに自分が嬉しいと思えそうか、という視点は、ときに、予想外で唐突な着地点を人にもたらすことがある。